Formula-1
ファン歴は長く、1990年代前半から見続けている。当初はアイルトン・セナを、セナ亡き後はミハエル・シューマッハーを応援してきた。セナは言わずもがなのカリスマだし(もっとも、現在のF-1にどっぷりはまった後の僕の価値観だと「ライバル」プロストのプレースタールに惹かれる部分が多いのでもしファン歴が長い状態でセナプロを見ていたら肩入れする選手が変わっていたかも)、シューマッハーは前に出られそうになると反射的に相手にぶつけてしまうほどの勝負根性を持っていた、数少ないドライバーだと思う。もっとも、シューマッハー自身は自分のそういうところが嫌いだったみたいだけれど(「理性」的には「フェアプレー」に徹したかったんでしょうね)。引退撤回しての復帰後はやや丸くなってしまった気もするが、やはり走るのが好きで仕方ないのだろう、成績は今一つでも、何だか楽しそうだった。
ちなみに、セナの次にシューマッハーを応援した理由は、僕の中では至極真っ当かつシンプルで「あの瞬間」にセナの真後ろを走っていたこと。F1の看板を背負うスターの座を受け継ぐのに、それ以上の理由は要らないと思った(今でも思っている)のだけれど、2000年モンツァで優勝回数がセナに並んだ際のシューマッハーの涙を見て、世の中そんなに単純じゃないからこそ色んな苦労があったんだろうな、と複雑な気持ちにもなった。幸いと言うべきか、シューマッハーの後はアロンソ→ハミルトン&ベッテル→フェルスタッペンという感じで「倒すべき王者を倒しての世代交代」が続いており「セナ→シューマッハー」のような追いかけるor倒そうとしたはずの相手に、突如として永遠に手が届かなくなる、という悲しい世代交代は起こっていない。
日本人としては、佐藤琢磨(F-1でこそ巡り合わせの妙で最高3位に留まったものの「インディ500複数回優勝」というのは、大学まで行ってからモータースポーツを始めた経歴からすると「ピアノのリヒテル」に匹敵する「遅咲きの偉人」だと思っている)、小林可夢偉、角田裕毅、とデビューの段階から日本人初優勝の可能性が「高い」と感じさせる選手たちが続いていて嬉しい反面、あと一押しの幸運(というか同郷の贔屓目だと不運じゃない普通の運)がなかなか巡ってこない気がして、なかなかもどかしい面もある。
最後にちょっとだけ愚痴を。最近のF-1はどうにもマニアックな面白さばかりを追求していて、ますます素人に分かりにくくなってきた気がする。ルールや判定基準がコロコロ変わりすぎるのがねぇ…。いちファンとしては悲しい限りだけれど、F-1を知らない人に「見てみろよ、面白いから」とは少々言い辛い状態、というのが正直なところ。確かに安全性はセナの事故以来飛躍的に高まったし(今のクルマだったら彼と同じぶつかり方をしても打撲と軽い脳震盪くらいで済むはず)、面白い試合が増えないとファンが離れていってしまう、という危機感も大切だとは思うのだけれど、最近のFIAの姿勢を見ていると、「試合を面白くするのは選手であってルールやジャッジではない」ということを本当に理解しているのか、という疑問を感じてしまう。今が「模索期」で、より良いF-1になるための過渡期なのであれば良いのだけれど…。